(1)位山古道の整備

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(1)位山古道

位山道は、東山道飛騨支路として敷設され、現代に至る道 です。東山道飛騨支路は美濃の方県駅で「東山道」から分か れて飛騨支路になります。
北へ進み現在の上呂駅から、あさん川(あさんず)橋(旧 朝水橋)を渡り、尾崎、黍生峠、和田、山之口、位山峠、無 数河、段、苅安峠、坂下、渡瀬、水無神社、そして宮川を渡 り大憧寺の裏山を通り、飛騨国府に至ります。「位山街道」 は一之宮から上呂あたりまでをいい、延長約28kmになります。
国司をはじめ政府の役人、都へ徴用された多くの飛騨の匠 たちがこの位山官道を通り、都と飛騨を行き来しました。今 も所々に残っている石畳の街道は、都から飛騨へと文化をつ たえ飛騨の文化をはぐくみ育てた道です。
高山市教育委員会では、高山市一之宮地内の位山道 について、範囲や時代、性格等を明らかにするため、 発掘調査を実施しました。調査の結果、従来知られて いなかった箇所で石畳が確認されたほか、石畳の無い 個所では轍(わだち)の跡と思われる溝も確認されま した。石畳については、平安時代頃のものと推定して います。

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<内容>
えー、おそらく、あの縄文時代からいろいろな人間の交流があって、それからあの、奈良時代になって、300、400年ほどですか。仁徳天皇の時、あの飛騨の方である、リョウメンソクの征伐に参られた。その街道がまぁ、一応だいたい、あの、この旧街道になっとります。 

はい。えと、その作った人達はもうその縄文時代の人たち…
うん。おそらく作ってことはないざ、あとはいろいろ改修はしてありますけど、あのおそらく、太古からあった。はい。道だと思われております。

えーと、位山街道はこう、今でも受け継がれていますが、その手入れの仕方というのはどのように行われていますか。
なぁ、あの手入れというか、あの、ここの石畳のとこはやっぱり昔から、この草刈りに行ったり、山へ仕事に行ったり、またあの、段部落の人が通ったり、あの現在萩原町になっとります、山之口村もこの大野郡ではない、あの郷やったんですけど、その人たちの交流。まぁそういう、道に使われておって、これは何年頃やろな。この立派なあの、道ができるようになって、だいたい旧街道に沿って、新しい4mかな?6mの道ができてきたのが、そうですなぁ、昭和30年から40年ころから道が開発されて。ねぇ。きました。

はい。現在はどのくらいの距離、何kmぐらい位山街道は続いていますか。
だいたい、あの、高山城、昔高山の高山、あの、城址。今の長橋あたりから測量した地図によりますと、まぁ石段のとこで一里。その神社、水無神社よりこっち、300m来たところに二里墓。二里の昔の柱があったと言われておる。三本松っていうところですけど、そこがあったと言われております。それからまぁ、あの段、そいて、あーと、今下呂市の萩原町の、あれはアサムツバシですかな、あそこの碑のあるとこです。あそこまでだいたい、六里と言われております。高山から六里。で、24kmですかな。しろくにじゅう、だいたいそれぐらいやの。道のりで、あの、だいたい直線に昔の歩く道はある程度、あの、こうグネグネ曲がらんと真っ直ぐに行っとりますで。はい。まぁ、そんな距離でございます。
はい。えと、位山街道はこの一之宮の人たちに、結構親しまれてるんですが、
はい。
んと、どのように親しまれているんですかね。
あのー、やっぱり太古からある道で、あの現在のところはまぁ少ししか残っとらんのですけど、まぁいろいろな、あの、屋敷跡やその駅舎ではないんですけど、牛や馬の休んだり、人間が休んだり、来させるためにあの使われておったと。そういう、親しみがあります。そして、やっぱりさっきの山道を何往復して行った。まぁ、そんなようなことですな。はい。

そうですか。位山街道の良いところ、というところを教えていただいてもよろしいですか。
そうですな、あの、まぁ良いところ、まぁ一応あの太古からの道はだいたい直線で、でまぁ、水害にも合わん道を選んであることは間違いないんですけど、あのー、400年ほど前、金森、300何十年ほど前に、1600年ごろですかな。金森の代になりまして、コウチ街道っていう久々野、小坂から久々野の方を回って、益田川沿いにまぁ、道を開発された時あるんですけど、まぁこれが新道で41号線になっておるんですけど、やはりあの、あっち側がまぁ新道になったんですけど、あっち側やっぱり水害に弱おうて、であの、あっちの道ができても、やっぱりこっちのちょっとの時はこっちの通れ、通る人が、明治過ぎまでそういうことがあったとを聞いております。で、まぁ、あの水害にはきついというか、歩くには都合が良かったんでしょうな。そう思います。はい。

はい。んと、昔はこう、どんな人が街道を利用されていらっしゃったんですか。
んー、おそらくここの道はだいたい京都へ通じる道で、あのー、であの京都との交流があの飛騨ともいろいろありまして、そういう偉い人が、あの、通ったり、また、あの大和、朝廷の方から何、あの島流しになった人もおそらくここを通ったことであろうと思う。んで、飛騨へ昔はまぁあのちょっと、あの、いろいろな、奈良時代にはお互いに身内でも戦いがあって、その敗れた方たちがあの飛騨へ流されたということがありますが、あのそういう時もやっぱり罪人として通られた道であり、またあの飛騨の匠と言いますか。あの税金の代わりに、あのお寺や神社を作るために、あのー、んー、何人か百人に一人ほどずつ徴用された時があります。そん時の、まぁ飛騨の匠ですな。飛騨の匠が行ったり来たりした、あの、通った道であると。で、そんなようなことでなかなか昔から大切にされた、うん、道であろうと思います。

はい。現在もどのような時に街道とかは使われておりますか。
現在はほとんどまぁあの、自動車の通る道になっとりますんで。ほとんどあの、この旧街道沿いに、あの、各村々へ通じる道が、あの、できております。まぁ自動車でほとんど通れます。ただ自動車道は、曲がっていくだけで、歩く道はだいたい直線で行っっております。はい。そういうことね。
はい。ではこれで、質問の方は、インタビューを終わらせていただきます。ありがとうございました。