2.飛騨一之宮の生い立ち

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飛騨一之宮の生い立ち

 飛騨一之宮地域の中心に、小さな丘のようなお旅山(おたびやま)があります。お旅山の丘の上からはるかに仰ぐ霊峰(れいほう)位山(くらいやま)を見ることができます。
また、山麓(さんろく)の豊かな森に蓄えられた清流は、宮川の源流となって北に向かい、伏流(ふくりゅう)の白く広い河原には水鳥が群れています。
数千年前、遠く海辺から山の幸を求めひたすら神通川をさかのぼってきた縄文人が、ついにたどりついた地がこの分水嶺である位山のふもとでした。人々は亀ヶ平(かめがたいら)の丘に小さな村を作りました。
さらに数万年前、旧石器時代人が姿をあらわしたころ、この一之宮はすべて湖の底でした。お旅山は島のように水面に浮かんでいたと考えられています。 

※霊峰(れいほう):神が宿った山
※伏流(ふくりゅう):地下水となって流れる川

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<内容>
あー、一応やっぱり水無神社から出とると思うんですけど、あの、だいぶん昔から宮村という名前で、またあの、この江戸時代から郷になって、久々野もやっぱり宮村という名前で、あの、だいたいまぁ現在も町村合併して、高山市のまた一之宮町になっとる。そしてあの、そのオラの時で、ちょっと飛騨の人が寄った時、どこやなって言われる。「宮村や」って、「ああ、一之宮か」って。あの宮村より、一之宮の方が飛騨では昔が、あの、いろいろな、あーみな飛騨の人は「一之宮、一之宮」と言われて、まぁ現在も一之宮町に、町になっとるんですけど。その神社に関して、宮村という名前が、あの、続いておると。そう聞いております。はい。

はい。ありがとうございます。それでは次に、今も受け継がれている伝統や文化はありますか。
まぁあの、一応水無神社の例祭にはまぁ、獅子舞・神代踊・鶏闘楽。まぁ、神楽舞もあったんですけど、私の子ども時分までは。神楽の舞って。これはなくなっとるけど。まぁそういう、神社の伝統。そやけど、だいぶん変わって、まぁ伝統っていっては、だいぶんなくなったものもありますし。まぁ神社のそのお祭りの行事だけは、まぁ延々と続いております。はい。

一之宮で昔と変わらず、大切にしているものは何かありますか。
んー、大切に、まぁ昔の建造物あんまり古いものが少なくなってまって、えーおるけど、まぁ神社やお寺。そやな、まぁそんな程度ですかな。はい。古いもの、まぁま、小さい、あの、各部落にちょっとした、あの、祠の神社は、まぁ残って維持しておる部落もありますし。はぁ。また、絶えてまって、祭りもせんようなところもありますし。はい。

はい。次に、昔と今で一番変わったことというのは何か…
一番変わった、やっぱり、あの、昭和40年代に、あの、農地かい、土地改良やな。土地改良ってこう、ブルでこう、デウンデウンのとこ平らで立派な田んぼや道路にしてまったことが、まぁ一番変わった。それで家屋が、やっぱり昔では板やので、石を上げたやのが無くなってまって、まぁ新しい家に、あの切り替わっとる。そういことが、一番なんですな。で、まぁ現在は、まぁあの、林業が廃ってまって、まぁあの、この村はほとんど、あの、村有林をたくさん千六兆、六百兆ほど持っとって、あの、まぁ五割以上は材木を売ったお金で学校作ったり、橋作ったり、またあの、村民の税金も少なく済んで本当、山のおかげでやったんですけど、現在は山の収入は全然ない。おそらくこれはまぁ、全国的ですけど、そういう状態です。はい。変わったとこは。

はい。
はい。

今と昔の町の様子を教えてください。
町ですか?あー、あのーやっぱり、今私たちの子どもん時は350ほどの戸数でしたけど、今まぁ700戸を超して、まぁ倍以上になっとんですけど。結局あの、非常に宮川、あの、水害で荒れては、あの、住家は、あの、ほとんど山の際、周辺、山のスソばっかに丸く、あの、あって、この平の家やなかったんです。で、んー私はまぁ大正生ま生まれやけど、そんでも明治26年、真ん中ねぇ、今の支所のとこに、役場ができたり、学校ができたりして、新しい道ができて、それからボチボチと家が建ちかけたと。そういう話を聞いております。で、私の子ども時分も、あのまぁ7・8件、あの道に、本通りの、あの農協辺りは5~6件あったかしらん。そんな程度でした。それから以後どんどん、まぁ、ほとんどまぁ後から来られた人は、あの、町の中心部に、家を作られたと。昔からあった土地は、このワタズエのあの地点がちょっと高かったとみえて、あの辺は昔の家もあり、またイチヤンカも庭木もたくさんありました。はい。で、周辺にあった、集落が今度は今後あの、河川改修ができて、道の開きがようなって、そして、あの、真ん中の方も安全な地帯なったもんやで人口が、戸数がどんどん増えてきた。はい。そんなような状態ですな。はい。



<内容>
はい。では、一之宮の他の地域にない特徴は何かありますか。
そやなぁ、あのまぁ他の地域にない、特別ではないけども、まぁ一つの集落、村としてはまぁ、あの、だいたい一回りする。うん。見渡せる。まぁでけぇ声で話しゃ、聞こえるくらいな、状態やの。村で。まぁ、段の方の15~16件あるんですけど、ちょっとこの刈安の向こうですが。あの、でほとんどまぁあの、飛騨でもこんなあの都合のええ集落は、あの、あんまりないですな。まぁ選挙なんかで、回ってもグーっと一回りせりゃそんで、あの、ぼって歩きゃ済むでな。そういうとこは、まぁええとこです。まぁ、そんな程度でまぁ特に。はい。
はい。それでは、一之宮に住む人の名字や地名などの特徴を何かあったら教えてください。
そやな、別に変らんけど、まぁあの水無神社、あの昔から神官や、あの何かで京都の方から来られた、その系統というか、あの大江とか山下とか、ミツキとかそういう名前が主体で、名字が主体で、あとはまぁいろいろ昭和でないが、明治の時ですかな。明治維新の時、まぁあの名字がつけられたような、あの、家でそれぞれまたあの、いろいろな名字がありますけど、まぁこれはだいたいあの、どこも同じやと思うけど、まぁ系統的には神社からの、まぁ士族、昔でいえば士族っていうかあの、そういう人の子孫が山下や大江とかミツキを名乗って、現在でもあの、一つの塊があります。まぁ、そんな程度でだいたい同じやと思うんですけど。はい。
地名については、何か…
はい?
地名については何かありますか。
そうやな。地名はあそこに地図を持ってきて、いろいろ調べたり聞いたりしとるんですけど。んーと、人の名前が入ったり、または山が抜けたで抜洞とか、抜戸とかそういうとこもありますし、あの、地名っていうと、まぁあの、集落の昔からあった、あの、ミギイチゼンの香典帳なんか見ても、このまぁ、山下とか、山下あーゴンタロウとか、タロベェとか、まぁそういう、香典帳で呼ばれておりますな。まぁ、洞の方なら洞の何太郎とか。奥なら奥のとか。そういうふうに呼ばれておって、特徴って別になんですけど、そんなような状態で、まぁどこもだいたい変わらんと思うんですけども、だいたい。そういうあの、地名に由来しとるとこもだいぶんあります。はい。あの、うちのあのちょっと、山下城の城があったとこやで、またその、いろいろな呼び名がありますし、一之宮の方は神社系統で坪ノ内って言って、その集落の内で、またいろいろな神社に関係したあの、地名がついとる。まぁ、寺は寺で、あの、往還
寺、まぁあそこ坂下って言うんですが、坂下の寺とも言われておりますけど、やっぱりその寺に、寺田とかそういうあの、やっぱり神社・寺、そういうふうにいろいろな災害のあったと。いろいろなことがやっぱり、地名の中に入ってきてますな。地名を調べておりますと、いろいろ。うん。まぁ、山伏がおったで山伏寺とか。でまぁ、昔あの、ガイトっていうか一つの塊の、何やってあのうん、山伏ガイト、番場ガイトとか、そういうとこが必ずあの、集落として、昔から稲を植えた。結局、水とあの沼田
、砂地みたいなとこには田んぼは作れんもんやで、そういうあの、山のスソやけど、そうガイトってとこがだいぶんあります。で、あの昭和の、うん、40年、30年頃までの田んぼに等級がついとったんやけど、だいたいガイトとついとるとこは等級が一等やったな。田んぼの質がよかったんです。まぁ、土地改良してまってからは、だいたい同じくらいみたいになっとるんですけど、まぁガイトというとこはあの、点々とあります。あの、いくつも…(編集で切れている)
一之宮の郷土料理は何かありますか。
いやぁ、特別ないんやさ。で、あのやっぱり宮の衆は商売が下手なもんやで、もぉいろいろなあのことは、今あの高山の名物になっとるようなことは各飛騨の村々ではやっとったこと。また、宮の村でもやっとったことが、五平もちになったり団子になったり、あのかぶら漬けになったり。みんな何ですけど、ちょっとこの村はなかなか進歩せんっていうか、商売が下手なもんやったんやな、昔から。特別はねぇんですけど、まぁ飛騨の、高山のもんで名物買やぁ、大概昔からやっとったことなんですけど。特別ないで、またいろいろ考えて、なぁ?あの、   してもらいたいと思います。
はい。
(質問切れている)
遊びっていうと、まぁ、んでまぁあの、遊び場って言うと一之宮の方では、神社。神社内で相当昔から遊んで、「あぁ、あれがあった」「これがあった」って話される人もあるし、まぁお寺の近所やとお寺が一番の遊び場の中心になったり。まぁ、あの、まぁ私の子ども時分からスキー乗りが、ソリ乗りが、なんして雪がちょっと降るとちょっとした、あの、勾配のあるとこ行ってはみんな集団で遊んだ。まぁ、そんな程度で、ですな。やっぱり河原、寺、神社が遊び場であり、またあの、自然の、あー、そうや河原や山にあった成りものを取ってや食べてや、うん、まぁ蜂の巣も小鳥もいっぱいおったんやしな、その頃は。うん。魚もいっぱいおったし。まぁ、いろいろあるんやけど、そんなようなことで、まぁ、うん。まぁ熊を語りゃいろいろあるんやけど。はい。

ハレ橋なんてのはほとんどなかったんやで。
ほとんどなかったんやでなぁ。
一番最初、雪橋になったのはどこやったんやね。
あのー、一番初めはく…
このあれかな、やっぱ宮前橋かな。
うーん、こん年は9年やし、昭和7年にこれ渡ってくる、この中川原橋ってやつが、
中川原橋あったな。
うん。こいつが早かったな。林道で。そいて、この駅前橋とな。その次が。
これを、おりゃすごいと思った。山下橋ってのは、あったもんな?
はい。山下橋…
山下橋なんて、あんな名前…
うん。大橋って言ったんやけどな。
大橋って言った?
うん。昔は大橋、大橋。木で作ってあったんや。こいつは古かったわいな、やっぱり。おらの子どもん時。何やったで。あの○○のような橋渡った。
ここは、やっぱり松橋からこの道が、この山下道とこちら側とは、一体どっちが主流だったのか。水無神社に行くには、こっちの方が近いんですね?
こっちのが近いんじゃけど、ここで水が出ると、この松橋ができる前は。
あ、そうか。
ここの辺でシモオトジってとこがあるの。こっからこっちはあがって、ここの神社。
はははははぁ。こっちが主流かね。そやなぁ、位山道ではなぁ。
うん。主流は昔はこっちやったらしいな。
どっちの道が、山下…あのこっちの今のスーパーのある裏側ところに、あの石碑なんか建っておりますわね。
そうそうそう。んー、スーパーの、そうそう。石碑ってありゃ、墓がな。墓やな、あの、
ちょっと上がってみとらんで、わからんのですけど、ちょっと道が高いとこにね。
あれっていや、事故で死んだような人のをまとめて、
はははぁ。
そいつを明治29年やらに作ったという、印あるなぁ。そいで、ここにウスゴエ城って、ウスゴエ城址ってのが。
うん。写真では見とる。
神社やけどなぁ。その裏を通って、この二の瀬へ
うん。
二の瀬へまで出る、昔はここを通ったんでねぇかっていう城の人はそういうこと言われた。そんで、ワゴウのとこ曲がって、若宮のとこから来るんや。高山の人は。まぁおそらく、
だいたい、この辺のとこでない?山腰さんが小学校、中学校のときに
うん。
遠足っていうと、どっち行ったな?こっち、位山の方へ行ったか、こっち行ったか。
うん。そや、ほとんどこっちの方…
やっぱ高山の方?
高山は
遠足っていうと。
二年生かそこぐらいで、あとは一番一年生はこの、ここの発電所あったんやけど、このちょっと、
ああ、発電所。
んでな。そこまでやったしな。それから、あの、ヤマナシ。こっちのここな。
ヤマナシ。
ヤマナシ。
あの宮峠の方へ行くやな。
ちぃとでこうなって、美女峠まで行ったし。
美女峠まで?あーあ、そうや。こっち行けるな。
こっちや。もうちょっとこっちやな。あー、そんなようなことで。そうやけど、あの高山のあれ、花里。石原先生が校長のときな、この花里町からこういうふうに回って、ここの久々野の山道を降りてな。ここへ。ござったことある。
石原先生が?
昭和40年やったな。
その道が僕はねぇ、ちょっと興味があるんやって。やけど、僕が歩いたことないんやって。
で、あの松倉参り行くにも、おらんとこの家はこの辺やなぁ。この辺じゃで…この辺じゃあな。
これ、これ尾根越えたんですか?
越えて。ちょうど鉄塔が建っとるとこ、道があったしな。ここ越えては、松倉ここの辺やで、近いんだ。
そうでしょう。だからさっき、位山のときでも、昔の古代の道ってのは基本的に直線やってこと
そうやなぁ。
そりゃ、僕も知っとるんですがね。山道ってのは、折れ道を通ると直線になるんやで。ここはどうも、こっから下は、古代では不自然やもんで、ここをやったかもしれん。
そう。ここに馬道っていうやつぁあんりゃ。
んー。
馬道っていう。
そんなら、理解できるわ。
あの、これは松倉城と山下城の通路であったという、なんやけど。
ほぉー。
この柵を登って、一寝入りせりゃすぐやわ。この辺にゴルフ場ある。すぐ早ええ。
ゴルフ場ある。高山ゴルフクラブや。ああ。
はぁ。ゴルフクラブがここら辺にあるんやな。
ははぁ。
ここ近いんじゃ。全然近いんじゃさ。あのー
そうなんや。
この道があってかもしれん。
あのねぇ、最大のここは、江戸時代になったら栄えた方やったんやと思うけども、
ああ。
古代は絶対あそこではないと。
で、そやな。古代は、このエチゴの裏を。
うん。
そいで、三瀬の裏で、や、三瀬ので、二の瀬ってとこがある。あの、どえりゃー角んとこや。あの若宮のちょっと上の。
若宮の。
うん。あそこから、ワゴウのとこへ道が、ワゴウの上へ道がある。
その道を…
その道を通ったんじゃ。じゃらずって、この神谷って人がな。なんかこの先生、校長してみえた。あのおったら120歳か30歳になってみえるかもしれん。その人から聞いたこっちゃけど。
うん。
そういう道もあるんじゃ。
だいたい、そのこの今のその道、位山古道やね?
はぁ。
この匠の道をこうやって来とるんやけども、
はぁ。
そのー、俺はその古代にその京都から、京都や奈良から、あのー国府を結んだと。その、各国の国府結んだっていうんやけども、その
その国府が
その国府がね、僕おかしいと思うんですよね。そのあの、東山道、東道はあの、石浦で終わっとるでしょ。
そうなん。
石浦が拠点地になっとる。で、そっから国府へ行くっていうんやけど、その石浦が、
ほぉ。
今の高山の石浦なのか、
うん。
ちょっと定かではないんですよね。
あーあー、そうかな。うん。
で、中には藤枝さんなんかは、その、あの人が言われたことか知らんけど、宮の人が言われた、ここ宮川。もし高山が、国府やとすれば、石浦に宿場を設けるっていうのは、不自然やないですか?