石嶺のむかし of 石嶺地区デジタルアーカイブ

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石嶺のむかし

石嶺は、王国時代は西原間切に所属していましたが、大正時代より段階的に首里に編入され、大正末期に石嶺町となりました。中央部にある丘陵地は、王国時代の名家の別荘地として「御殿山」という地名も残されています。首里で最も人口が多く、活気にあふれたまちです。
(※御殿とは、王子や按司家を輩出した琉球の上流階級の家柄のこと。)

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伊江家は、尚清王の第七子である朝義を祖とし、代々伊江島の総地頭職として、伊江按司を称していた由緒ある家柄です。

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1687年に五世朝嘉が造営」した亀甲墓。琉球の亀甲墓の原型とされる墓で、国指定文化財となっています。

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墓の西側樹林にある伊江家の別邸庭園。庭園は古い形をよく残し、琉球庭園独自の伝統様式が見られる伝統様式が見られる上流階級の庭園として、国指定名勝に指定されています。

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豊見城家は、尚貞王の第二子尚径を祖とする家柄で。墓は18世紀初頭に造られました。

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読谷山家は、尚敬の第2子尚和を祖とする家柄。墓は巨大な亀甲墓として、那覇市指定文化財となっています。

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十七世紀前半に整備された烽火台のひとつ。烽火台は、沖縄島および周辺の島に設置され、船が確認されると火をたいて順次首里まで連絡していました。


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