真珠道(まだまみち)は、守礼門の東南脇にあった石門を起点に、金城・識名をへて、那覇港南岸まで続いていた道。
真珠道の建設は尚真王代の大土木事業の一つで、首里と島尻地方をむすぶ幹線として整備された。そのルートは、首里城前の石門から金城坂(カナグスクヒラ=首里金城石畳道)、識名坂(しきなヒラ)、真玉橋(まだんばし)、石火矢橋(いしひやばし)、豊見城城下の東北側、小禄の丘の中腹を通り、那覇港の南側に位置する垣花(かきのはな)にいたるものだった。
1522(尚真46)年に建立された「真玉湊碑文(まだまみなとひもん)」によると、真珠道の建設および真玉橋架橋は、一般の交通の利便をはかるほか、国土の防衛のために建設されたものとされる。
朝鮮半島・中国大陸の沿岸地域で、倭寇(わこう)とよばれた海賊が侵犯・略奪をくりかえしていた当時、琉球の重要拠点であった那覇港の防衛は重要な課題で、いざというとき、首里城を出た部隊は真玉橋を渡り、島尻の各地からやって来る軍勢と合流、那覇港口の南岸、垣花に位置する屋良座森城(ヤラザムイグシク)に集結し、外敵の侵入に備える必要があったのである。
島尻との交通・情報伝達そして防衛のため、真珠道は南廻りの軍用道路として重要な役割を担っていたのである。