琉球王国時代、首里城を起点とした宿道と呼ばれる公道が琉球の隅々までひかれ、王府の発令した布達は番所から番所を経由し、中頭、国頭、また島尻へと伝達された。今回歩く道は尚真王時代に軍用道路として建設された真珠道で、この道は首里城守礼門のわきにあった石門(イシジョウ)を起点とし、シマシービラ(島添坂)、金城坂(現金城町石畳坂)、識名坂を通り真玉橋のイシバーシ(石灰矢橋)をわたり小禄を抜け、那覇港南岸至っている。
第二尚氏3代の 尚真(しょうしん)王の時代(1477~1526)に多くの土木・建築事業が行われ、首里と地方を結ぶ道路が整備されました。中でも代表的なものとして真珠道がある。
真珠道は1521年の 竣工(しゅんこう)で、守礼門を起点とし、金城町の石畳道(県指定文化財)、識名を通って 真玉湊(まだまみなと)(国場川の下流)に 至(い)たる約4キロの石畳道でした。首里と島尻を結ぶ主要な道で、那覇港への外敵の侵入を防ぐ軍事道路でもありました。国場川に 真玉橋(まだんばし)(注2)などの木橋が 架(か)けられた。
真玉橋(まだんばし)
豊見城市と那覇市を結ぶ国場川に架かる橋。創建は1552年に木橋五座が創建、真中を真玉橋、その南北を世持橋、世寄橋といい、両端の二座は無名。1707年に石橋に改修された。