町たんけん of 佐見デジタルアーカイブ

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町たんけん

佐見は、加茂郡白川町の北東部で、飛騨川支流の佐見川沿いの地域です。佐見には、郵便局、JAめぐみや神社、豆腐屋さん、スーパーなど、生活に欠かせないお店や自然、神社があります。
 これから佐見の町を探検してみましょう。

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 平成8年4月から、差見地区公民館、役場佐見出張所の機能を合わせて運営しています。佐見の中心に建設し、中学校体育館・校舎と屋外廊下で結ばれています。中学校の特別教室・体育館の利用もできるように工夫されています。

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 町村合併を行った昭和30年代ころ,電話の普及が始まり,有線電話が大きな役割を果たすようになり通信の手段は著しく進化した。郵便局は,明治7年に郵便取扱所という名称で始められて以来,幾多の変遷を経て現在に至っている。郵便物の送電のほか,手軽に利用できる金融機関として,貯金・為替・振替・保険・年金など,幅広い業務を行い,また,電報電話局へと移管するまでは,すべての通信業務を処理してきた。 佐見郵便局の開局は,明治15年12月に郵便取扱所として発足し,その後廃止・復局を繰り返し,明治35年12月16日に佐見郵便局となり,集配特定局として現在に至っている。昭和7年に専門局舎が,建設されるまでに局舎の移転は4回に及んでいる。さらに,昭和44年に郵政互助会により,上佐見に新局舎を建築移転した。昭和49年9月電話自動化に伴い電話業務を廃止し,平成2年には電報配達業務を廃止した。
 その後,佐見地域の道路網の整備と,町並みの変化に伴い局舎位置の変更を迫られ,平成11年2月,町のふれあいセンターの南側に当たる中心部に郵政互助会事業による木造平屋建289㎡の局舎を新築移転した。

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 僕たち、私たちのお気に入りの場所は、佐見とうふです。佐見とうふでは、1日200個~300個とうふを作っています。豆腐は、朝の3時くらいから作っています。豆腐を作るのにかかる時間は、1時間40分ぐらいかかります。このお店は、豆腐の他に油揚げやおからボール、がんもどきなど大豆から作られた食べ物を作っていました。試食をしたら、とっても美味しかったです。

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 昭和40年12月,白川町総合開発審議会は,町長の諮問を受けて「農協合併」について次のように答申をした。「現在の6農協は,いずれも規模が小さく,変動の激しい時代に対応していくためには,経済的にも技術的にも強固で信頼のある基盤を整え対処する必要があり,この際大同合併すべきである。」これを受けて各農協では,臨時総会を開催し,佐見を除く白川町・板ノ東・蘇原・切井・黒川の5つの農協が合併を決議し,昭和41年3月31日新しく「白川町農業協同組合」として発足し,業務を開始した。
昭和41年8月に「白川町産業会館」が完成し,農協本所事務所にした。この事業所は,白川町農協のほか,農業共済組合,森林組合,商工会の事務所も入った。農協では,運営組織を整えるとともに,農協婦人部を結成するなど,地域との連結の強化を図りスタートした。スタートからの5年間は,各支所の整備,災害の発生,米の生産調整と試練の時期であった。米の生産は,従来の増産体制を一変させる衝撃的な制度であったが,目標以上の達成をするとともに,農協としてもその後の農家の経営に新方向を示す重要な時期との認識が強まった。
 昭和46年からの5年間は,佐見農協との合併を果たし,一段と力を増したこと,新しく農協会館を建設したこと,自己資本1億円突破など,経営基盤の充実が進んだ時期である。農協施設としては,三川に大型製茶工場を,また圃場の大型化・機械化に対応して,水稲育苗センターを三川に設立した。昭和51年からの5年間は,圃場整備が進む中,佐見ライスセンター建設,農業機械銀行設立,大型トラクター・コンバイン導入,農業機械事業センター設立,肉用牛集約育成基地牛舎建設など農業基盤強化を一層進めた。
 平成3年からの5年間は,世界経済的にも苦難な時代になった。平成4年4月1日から愛称を「JAしらかわ」とし,イメージアップが図られた。このような経済事情を踏まえて,広域合併問題が浮上し,加茂郡市9農協の役員代表で合併推進協議会が結成された。12月3日には,臨時総会が開催され,広域合併を承認した。平成5年4月1日,合併による「美濃加茂農協(JAみのかも)」が発足し,各支所は,それぞれ「美濃加茂農協〇〇支店」と呼称するようになった。それを受け白川町農協は,「美濃加茂農協美濃白川支店」と呼ばれるようになった。その後,さらに呼称は移り変わり「JAめぐみの」となった。その経緯は以下のようである。
平成11年10月  中農JA合併研究会
13年 9月  中農地域JA合併プロジェクト発足
    14年 7月  合併JAの名称・愛称が「めぐみの農業協同組合(JAめぐみの)」
           に決定。
    14年 9月  総代会で5JAの合併が決定
平成15年4月1日,新生「JAめぐみの」は,地域・組合員の大きな期待を集めてスタートした。合併後に当たって中農地域JA合併推進協議会は,「厳しい経済情勢の中,JAは組合員・利用者の多様化・高度化するニーズを充足し,機能・サービス・品質面で他との競争に対抗できる体制整備を行うため,JAの管理経営機能や組織基盤の抜本的な強化を行い,組織員により「信頼」され「地域」に根ざした活動を進める」と,合併の意義を述べている。
 JAめぐみの・美濃白川支店(旧農協会館)は,業務の縮小に伴い,事務所内部を改修するとともに,2・3階については町が買収し,「美濃白川楽集館」として整備した。内容は,2階に図書・映像・音楽コーナーとして,「おはなしのへや」・「じどうコーナー」・「一般書コーナー」・「視聴覚コーナー」・「学習閲覧室」を3階には,郷土にゆかりのある人物として「藤井丙午氏・尾崎秀樹氏・岡本一平氏関係」や文化の紹介,明治維新史料の展示をはじめ,各種の展示に対応する企画展示室と会議室が整備され,カルチャーセンターとしての役割に期待が寄せられている。なお,管理運営は「コミュニケーション施設の設置と管理運営に関する条例」に基づき,教育委員会が所管することになっている。
 郷土にゆかりのある人物については以下に紹介する。
  藤井丙午氏…白川町黒川で生まれ育つ八幡製鉄所副社長から,昭和22年第1回参議
院議員に当選。多くの会社役員や公職経済界の役職を歴任し,戦後の日本
の政治・経済界で活躍する。
尾崎秀樹氏…白川町出身の尾崎秀太郎の4男。大衆文学研究に一生をささげ,多くの著書を世に送り出した。日本ペンクラブの会長等も務める
岡本一平氏…日本漫画界の父岡本一平氏が1945年白川町へ疎開。滞在中に17文字の新たな文芸「漫俳」を提唱する。今もこの地で継承されている。夫人の岡本かの子は作家として,息子の岡本太郎は日本を代表する芸術家として有名である。

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佐見川は,加茂郡北東端の高峰尾城山に源を発し,吉田・小野・稲田などの谷を集めて,飛保辺りから急流となって上油井で飛騨川に流入している。流域は61。7㎢である。佐見川には,中部電力が現在所有する水力発電所があり,昭和3年12月に運用開始の歴史を持っている。
白川町に電気が登場したのは大正に入ってからである。水力の発電ブームが起き,集落のあちこちに小さい発電所ができたが,やがてこれらの自家発電の規模は地域をまとめるようにして大きくなった。佐見には。大正4年から9年にかけて幾つもの発電所ができたが,大正12年に佐見水力電気が開業し,東白川村の村営発電所から桜峠を超えて受電するようになって,自家発電は発展的に解消した。佐見川の水を利用した佐見川水力は,大正6年の開業で金山町や下原村の一部に送電点灯し,後に菅田村・東村,西白川村の一部までエリアを広げた。なお,この佐見川発電所は,水路で水を導き落差を得る発電形式で,有効落差38。41メートルを築き,自然の力に依ってのみ水の位置エネルギーを得て水力発電をしているので,小規模な水力には珍しい圧力水路を有し,現在も立派に稼働している。

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終戦後の新しい教育法によって,中学校は3カ年の義務教育になり,昭和22年4月各中学校が開校した。開校には,校舎など学校施設が間に合わず,小学校との併設や旧青年学校校舎を借り校舎にしてのスタートになった。開校1~2年後には,校舎の建築,教室の増設をするなど一応の施設は整った。
しかし,小学校との併設校は,運動場も共用という状態であった。また,生徒数は激増し教室はさらに不足して校舎の増改築を迫られた。
このような事態を合併による新町建設計画の中で,中学校の統合が計画された。学校規模を大きくし,近代的な施設の整備によって教育振興を図ろうとするものである。
昭和36年12月町議会において以下の議決がなされた。(一部抜粋)
1。新しく造られる校舎は素朴で,しかも近代的なものとするため良く検討して立派なものを早く造ること。
3。新しくできる学校と統合できない学校との間に不均衡が生じないよう町内のどの学校についても教育水準を高めること。
4。将来は,一町一校として義務教育効果を上げていくのが理想であるから,今後町内の立地条件を改善すること。
佐見中学校は,昭和22年5月上佐見小学校,下佐見小学校に臨時教室を置いて開校する。新校舎を上佐見小野地域内に建設中,「昭和24年3月屋根と骨組みだけの2階部分に急遽床を張り卒業式を挙行。敷地造成や校舎建設に,労力を惜しみなく提供してくれた卒業生たちをねぎらった。」と,町広報による佐見中追憶の記事に記されている。この新校舎は昭和24年8月に完成し授業を始める。
昭和25年1月には,遠距離通学の学生のため,校舎の一部を冬季寄宿舎にして整備したが,4月から待望の定期路線バスの開通に伴い,その後の利用生徒がなくなり,廃止になった経緯もある。
中学校の施設整備は佐見中学校が最後になり,施設の配置など全体構想のもとに,平成2年6月体育館の改築工事に着手,翌3年2月完成した。
校舎は鉄筋コンクリ―造り,瓦葺屋根にステンドグラスがはめ込められた明かり窓の組み合わせがユニークな3階建て,外観は和風建築の趣きを見せている。1階には,町内学校で初めてになるランチルームを設け,将来社会教育に活用できるよう調理室,美術室,コンピュータ室を設置し,隣接の佐見ふれあいセンター,体育館と屋根付き通路で結んでいる。
したがって,職員室を2階にし,普通教室を3階にする斬新な配置になり,町内学校施設整備の最終事業を飾るにふさわしい学校になった。

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小学校のすぐ上に、佐見保育園があります。大きな遊具もあり、みんなで楽しく保育園に行きます。

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