飛騨春慶塗りの歴史について解説します
江戸時代
飛彈春慶塗りの作品 飛騨春慶塗の始まりは、今からおよそ400年前。江戸時代からだと伝わっています。
1606年、高山城下で寺社仏閣の造営に携わっていた大工、高橋喜左衛門がたまたま打ち割ったサワラの木目の美しさに魅せられ、ハマグリ型の盆を作ったことが始まりです。
高橋がそのサワラの盆を、当時の藩主・金森宗和に献上したところ、宗和は大変感動し、高山藩の御用塗師、成田三右衛門に盆を漆で塗るように命じました。
木目を生かすべく、透漆で塗った盆は再び宗和に献上され、季節が春だったことに因んで、春慶塗と命名されました。これが飛騨の春慶塗の起源だと言われています。
宗和が茶道の名人であることもあり、当時の春慶塗は茶器が主でした。春慶塗の茶器は高山藩から将軍家へと献上されたと伝わっています。
初めは将軍や大名が使っていた春慶塗ですが、江戸時代の中期になると、茶器だけではなく、重箱や盆も作られるようになりました。これにより、庶民も春慶塗の道具を手にすることができたといいます。
明治時代
飛騨春慶が全国的に有名になったのは、明治時代の初期。吉川太助という職人が東京上野で行われた第一回内国勧業博覧会に飛騨春慶の漆器を出品し、政府から高い評価を受けたためです。また、数年後には息子の徳太郎も飛騨春慶の作品を8点、第二回となる勧業博覧会に出品し、入賞しました。そのため全国的にも知名度がぐんと上がり、生産額がこれまでの三倍になったといいます。
明治時代も半ばになる頃には、春慶塗を扱う問屋が現れ、流通経路が拡大しました。そのため、より多くの人々の手に春慶塗が渡るようになった反面、大量生産による品質が問題になりました。
大正・昭和時代
大正時代から昭和にかけて、飛騨春慶塗りの職人は数を増やし、産業としての基盤が出来上がりました。
第二次世界大戦の頃になると、産業どころではなくなり、需要も激減します。しかし、戦後は再び需要を取り戻し、高山の地は春慶の産地として再びよみがえりました。
昭和50年2月17日。通商産業大臣(現・経済産業大臣)によって伝統的工芸品として第一次指定を受けました。