飛騨高山の偉人

勾猪麻呂(まがりのいのまろ)

生没年不明。奈良時代に活躍した飛騨の職人です。
奈良の東大寺、石山院の造営に携わりました。
飛騨の匠の中でも技術優秀だとして重用され、「木工散位寮散位従8位」という位をもらいました。この記録は歴代の飛騨の匠の中でも最も高い位です。

藤原宗安(ふじわらのむねやす)

鎌倉末期の匠。
応長元年(1311)、美濃国長滝寺の大講堂を建立した人物です。
特に近世の職人から名工として崇められ、正月には宗安の肖像にお酒を供えたと伝わっています。

金森長近(かなもりながちか)

(1524-1608)
高山藩初代藩主。美濃の土岐氏の一族である、大畑定近の次男として生まれた人物です。
天文10年(1541)から織田信長に仕え、信長の長の字を貰って長近と名乗るようになりました。天正3年(1575)の長篠の戦いで活躍し、その功で越前に領地を貰いました。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)八月に飛騨へ侵攻し、平定します。その後、平定した飛彈を治めることになりました。
晩年は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで貰った美濃で暮らしました。墓は京都の金竜院にあります。
彼が高山で行った政策についてはこちら

左甚五郎(ひだりじんごろう)

生没年不明。飛騨の甚五郎とも。
飛騨出身の匠で、彫刻の名手と言われる人物で、日光東照宮の「眠り猫」などを制作したと言われています。
甚五郎が実在したかどうかは定かではありませんが、日本全国に残る素晴らしい彫刻が飛騨の匠・左甚五郎のものだと言われるのは、飛騨の匠の技術は素晴らしいと認識されている証だと言えます。

谷口与鹿(たにぐちよろく)

(1822-1864)
 谷口与鹿は文政5年(1822)に上本町に生まれた、江戸時代後期の職人です。
麒麟台など高山祭の屋台にいくつか彫刻を施し、そのどれもが素晴らしい作品だとして今日まで残っています。