天正13年(1585)、織田信長の死後、天下に最も近かった豊臣秀吉の命により、美濃出身の武将・金森長近が軍勢を率いて飛騨国に攻めてきました。長近は牧戸、古川、広瀬、高堂、鍋山、松倉城などを次々と落とし、わずか10日ほどで飛騨を平定したと伝わります。
翌年14年(1586)に飛騨攻めの功として、飛彈3万3000石を賜った長近は、大八賀郷の鍋島城を居城とし、飛彈の統治を始めます。天正16年(1588)には天神山城を改修し、高山城と名を改め、そこを以上として城下町の整備を始めました。

長近が城下町を治める際に行ったことは、主に以下の四つです。

土地の整備

長近がはじめに行った政策は、城下町の整備でした。宮川の護岸工事、荒れ地一体を商人たちで賑わう商人町へと変えています。長近によって整備された宮川の商人町は、今でも宮川朝市いう朝市が毎朝行われ、賑わっています。

寺社仏閣建立

長い戦乱の時代のうちに、飛彈の古い寺社はいくつも焼かれてしまいました。そのため、長近は寺社仏閣の建立・再建にも力を入れました。長近によって再建された寺は、千光寺、国分寺、雲竜寺などがあります。
金森長近によって行われた、寺社仏閣に携わった大工の棟梁の一人が、春慶塗の始まりに繋がります。

鉱山開発

高山には元々金銀が採取できる鉱山があったため、長近はその開発に力を入れました。

道路拡大

城下町の整備の一環として、長近は道路の拡大を行いました。
また、他国への出入りを用意にしたため、近江の商人などが町へ来ることによって、商業を活発化するようになりました。