飛彈国だけ課された税

匠丁とは、律令時代に始まった、飛彈国だけに課された税の呼び名です。
飛彈国は寒い気候のため、作物があまり育たない土地でした。そのため、年貢を規定値通り治めることが難しい下国とされ、代わりに労役を課されることになりました。
その労役こそが、都で寺社の造営を行う匠丁と呼ばれる税でした。
法律には『飛彈国は庸(労役の代わりに布を納める税)と調(土地の特産物を納める税)を免除するが、その代わりに里ごとに匠丁を十人出すこと。匠丁の任期は一年交代で、該当しない人々は米を出し、それを匠丁の食料にすること』といった内容のことが書かれています。当時の飛彈には13里、里があったといいます。そのため、毎年130人ほどの飛彈人が、匠丁として都に行っていたと考えられます。
この制度は平安時代末期まで、500年続いたと伝わります。

逃亡者

匠丁の仕事は年間330日から350日あり、雨の日や病気で仕事ができなかった日は食事の量を半分に減らされるという、大変過酷なものでした。
そのため逃亡者が後を絶たず、延暦15年(796)には逃亡者および逃亡者を匿った者を処罰する法律まで出される程でした。
また、中には技術を買われ、地方の寺社などに雇われたために、故郷に戻ってこない人も多くいました。

出世した飛彈の匠

このように厳しい匠丁の仕事でしたが、中にはその力を認められ、政府の重要な仕事に取り立てられる人物もいました。
例えば正倉院文書には、「木工散位寮散位従8位下 勾猪万呂 斐太国」と書かれています。これは勾猪万呂という飛騨出身の工匠が、木工散位寮散位従8位下という位で働いていたという証拠になります。実際に勾猪万呂は、奈良の東大寺や石山院の造営に関わっていると伝わります。