生没年不明。奈良時代の仏師。
吉城群月ヶ瀬村生まれ。飛騨の匠の祖とも呼ばれる人物で、止利仏師、あるいは鞍作首止利とも呼ばれています。

鞍作鳥の伝説

鞍作鳥の出生に関する伝承には、こんなものがあります。
飛鳥時代、聖徳太子の命を受け、仏像を作るのに相応しい木を探しに、飛騨へやってきた鞍作多須奈という男がいました。彼は懸命に材木を探しましたが、慣れない山の中なので、ある日、山中で怪我をして動けなくなってしまいます。そんな彼を助けたのが、月ヶ瀬村に住む娘・忍でした。
看病生活が続くうちに、多須奈は性格の良いこの娘に惹かれ、忍も多須奈をよく思うようになります。しかし、忍は大変器量が悪かったため、自分は貴方に相応しくないと多須奈の誘いを泣く泣く断ってしまいました。
やがて、山で負った怪我も回復し、良材も見つけたため、多須奈は都に帰ることになりました。彼が都に帰る前の晩のこと、多須奈への想いを捨てきれない忍は「自分がもっと美い娘だったらいいのに」と祈りながら、月影が映る湖の水を飲みました。すると、その願いを聞き入れたように、忍は非常に美しい女性へと姿を変えました。そして、無事に多須奈と結ばれ、その時に授かった子が鞍作鳥であると言います。
その後、多須奈は 都へ帰りますが、忍は同行せず、彼女はやがて鞍作鳥を産み、女手一つで育てました。鳥の名前の由来は、首の形が鳥に似ていたことからきていると伝わっています。

鳥に関する不思議な伝説には、このような話もあります。
鳥がまだ幼いころ、山で母親の忍と二人で暮らしていた彼は、たった一晩で、一人で水田を作り上げたことがあります。驚いた忍がどうやったのかと尋ねたところ、彼は木で人形をいくつも作り、意のままに操り、それらに水田を作らせたと答えたそうです。
この伝承は、江戸期にいたとされる飛彈の名工・左甚五郎が作った神馬の像が動き、近隣の水田の米を食い荒らした、という話に通じるところがあります。

史実における鞍作鳥

鞍作鳥が飛彈国から出て、当時都があった大和国(現在の奈良県)へ入ったのは、599年のことだと伝わっています。この時代は、推古天皇とその摂政である聖徳太子が政を行っている時代でした。
都での生活の中で、鳥は父親である多須奈と初めて会い、鞍作多須奈の子・鞍作鳥として彼のあとを継ぐ仏師として仏像造りに携わっていきます。

鞍作鳥が作った仏像の中でも、特に有名なものは、法興寺の大仏と、法隆寺金蔵の銅像釈迦三尊像の二体です。法隆寺に安置される釈迦三尊像の方にはその光背銘のところに「司馬鞍首止利」という署名が入っているそうです。
他にも彼は、玉虫厨子など数々の名品を残していると伝わります。