縄文時代 

縄文時代の家屋。堂之上遺跡 飛騨高山最古の遺跡として、一宮ノ遺跡が発掘されています。この遺跡から出土した遺物から考えるに、当時の飛騨高山は湿原性が高く、今よりも寒い環境だったと考えられています。また、亜寒帯針葉樹林が多くあり、自然木が多数生えていました。
 飛騨高山の地は、東西を山に囲まれていることもあり、木材や石材が豊富にありました。そのため、旧石器時代から縄文時代にかけて多くの石器が作られました。
 

飛鳥時代

中国から仏教が伝来し、仏教文化が花開いた飛鳥時代。
飛騨高山の地が歴史書に初めて出てくるのは、この時代に書かれた『日本書紀』です。ここには「朱鳥元年(686年)に大津皇子の謀反に関わった新羅の僧・行心が飛騨の伽藍に流される」という記述があります。
また、『日本書紀』や同時代に書かれた『古事記』には、四世紀後半に起きた飛騨の豪族、両面宿儺の乱について書かれています。
  両面宿儺との戦いについて
飛鳥時代中期、聖徳太子の時代になると、法興寺、法隆寺などの寺や、そこに納める大仏が多く作られるようになりました。この時期に、のちに飛騨の匠の祖であると言われる鞍作鳥という仏師が活躍しました。
  鞍作鳥について
また、七世紀から八世紀にかけての、激しい都の移り変わりの裏には、都を造営した飛騨の匠の姿がちらほらと見られます。
 

奈良時代

奈良時代になると律令制度が定められ、国ごとに税を納めることになりました。しかし、飛彈国は寒く、稲作には向いていない土地であったため、米の代わりに労役を課されることとなりました。その労役を「匠丁」といいます。
 匠丁について

 

平安時代

奈良時代に引き続き、匠丁の制度は平安時代末期まで続きました。
この時代に成立したとされる「今昔物語」には、百済河成という絵師と、飛彈の匠が技比べをする話が残っています。

鎌倉時代

平清盛の死後、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、1185年に源頼朝によって鎌倉幕府が開かれました。幕府を開いた頼朝は日本各国に国司と同じ役割を持つ、守護・地頭を置きます。飛騨国の最初の地頭は、多好方という人物でした。
多氏は吉城群国府村に居を構え、弘安の役の頃まで飛騨国を治めました。

元寇によって力を失いつつあった鎌倉幕府から朝廷の力を取り戻そうと、後鳥羽上皇が兵を挙げます。当時、飛彈の国司であった石川義継も天皇側として戦ったと伝わっています。
 

室町時代

 1333年に鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏によって室町幕府が開かれました。
 新しく任命された国司は姉小路家綱。彼は吉城群細江村に居を構えました。
 

戦国時代

応仁の乱の後、世の中は戦国時代に突入します。
飛彈国では大野郡の三木氏、吉城郡の廣瀬氏、阿曾布村の江馬氏などがしのぎを削りあい、天正11年(1583)の頃には、美濃の斎藤氏や越後の上杉氏と同盟を組んだ三木氏が飛彈の国中に勢力を持つことになりました。
一方、美濃や京では、尾張の織田信長が天下統一まであと一歩、というところまで迫っていました。しかし天正10年(1582)、信長は本能寺で明智光秀の手によって倒れ、その明智光秀を倒した豊臣秀吉の時代が訪れます。秀吉は信長の後を継いで天下を取るべく、九州や四国を次々と攻略していきます。三木氏が治めていた飛彈国もその中の一つでした。
秀吉は美濃出身の金森長近に飛彈攻めを命じ、天正13年(1585)、長近による飛騨攻めが始まりました。金森は飛騨の地理にも明るかったため、戦いは十日ほどで終わったと伝わります。
飛彈の三木氏を滅ぼした功として、長近は飛騨3万3000石を賜り、翌年から飛彈を治めることとなりました。金森は高山に住み、城下町をよりよくするために尽力しました。
  金森長近の政治
 

江戸時代

1600年の関ヶ原の戦い、1615年の大坂夏の陣が終わると、世の中は徳川を中心とした平和な時代になりました。金森家の統治は続きました。
江戸時代の初めには、金森長近の孫・金森宗和と金森家御用塗師・成田三右衛門義賢、金森家に仕える大工の棟梁・高橋喜左衛門の手によって飛彈春慶塗が起こります。
  飛騨春慶塗の歴史
また、正確な時期は判明していませんが、金森家が高山を納めていたおよそ100年間の間に、高山祭が始まったと伝わっています。
  高山祭の歴史
金森家の統治は、元禄5年(1692)、金森家の六代目当主・金森頼峕が五代将軍徳川綱吉の勘気を被り、出羽国へ移転させられるまで続きました。
高山陣屋金森氏が飛騨を去ったあと、飛彈国は天領として幕府に治められました。初代代官は、伊奈忠篤。忠篤は治場所を高山に定め、陣屋を作りました。
江戸時代後期になると、谷口与鹿らによって、今の高山祭の屋台が制作されます。
また、松田亮長によって一位一刀彫の手法が確立されました。
  一位一刀彫の歴史
 

明治時代

明治時代になると、飛彈国は美濃国と共に岐阜県に改められました。
明治28年(1895)には八代目阪下甚吉により、高山町役場が建造されます。西洋の建築技術を学んでいた阪下は、高山町役場に鉄欄やガラス戸、耐熱瓦、ズックの敷物、机と椅子など、高山では初めてとなる技術を多く導入しました。そのため、高山町役場は飛騨の匠の技術と西洋建築のデザインが合わさった造りとなっています。
 

大正時代

大正9年(1920)には、飛騨の家具産業の先駆者ともなる、飛騨産業株式会社の元・中央木工株式会社が創業します。
  飛騨産業株式会社の歴史
 

昭和時代

昭和20年(1945)、太平洋戦争が終結しました。そのため、戦時中は高山航空工業株式会社として木製飛行機の製造を行っていた飛騨産業株式会社が、家具造りを再開します。
昭和50年(1975)には飛騨春慶塗と一位一刀彫が通商産業省によって伝統工芸品の第一次指定を受けました。